メモ:規模による辞書の分類、膨張型と制限型
これはメモ書きである。だから、いささか乱暴な論理がそこかしこに顔を出す(というのは別に予防線ではないので、反論は大歓迎です)。そしてツイッターに書くにはちょっとばかり長い。
項目数8万クラスの小型辞書、20万台の中型辞書、50万台の大型辞書。そういう分類をしているが、いつまでこれでいいのだろうか、と時々疑問になる。
紙の辞書の時代、大量の項目を載せるためには大量のページが必要だった。20万項目を載せるには「小型」辞書のサイズでは足りず、より大きくなるので、「中型」辞書と呼んでも全く怪しまずに済んだ。
しかし現代にあっては、この分類法は効果的と言えるだろうか。紙で買えば大いにかさばる3巻セットの日本国語大辞典精選版、2巻セットの大辞泉、B6単冊で完結する三省堂国語や岩波国語。iPhoneのホーム画面ではアイコンのサイズはいっしょだ。インストールに必要な容量に注目してももっぱら音声の有無が決め手じゃなかろうか。電子辞書でもオンライン辞書でも辞書の「サイズ感」は皆無である。
小型辞書は小回りがきく、と言われることもあった。改訂ペースが早ければ、戦後の時期にあっては国語政策の変遷に細かく対応できたし、最近なら新語・新用法への目配りが利くということを意味する。(ちなみに広辞苑の改訂はだいたい8年おきで、小型と比べてそんなに遅いとは言いきれない。)
見坊豪紀は三国3版の序文で述べる。
〝鏡〟と〝鑑〟の両面のどちらに重きを置くか、どう取り合わせるか、それは辞書の性格によってさまざまでありましょう。ただ、時代のことばと連動する性格を持つ小型国語辞書としては、ことばの変化した部分については〝鏡〟としてすばやく写し出すべきだと考えます。
新語・新用法に強いという三国の性格は、三国が小型辞書であることと密接な関係がある。
関係があった、と言うべき時が来ている。いまや、小型より小回りのきく中型国語辞書がある。デジタル大辞泉は現在30万項目を擁しているが、2009年には23万項目だったのだ。同辞書は年3回の更新を売りにしていて、その結果8年で7万項目を増やした。旧来の分類法で言うなら中型から大型へ少しずつ近づいていっている。
大辞泉ほどではないけれども、スーパー大辞林も随時更新を行って新項目を追加しているようだ。
そうした改訂ペースを実現しているのはもちろんデジタル技術だ。デジタルの与える影響は計り知れない。
例えば、「膨張型(仮)」と「制限型(仮)」、という区分けはどうだろうか。
デジタル大辞泉は「膨張型」である。いちど載せた項目は削除しない編集方針だ。すると項目数は膨張の一途だ。スーパー大辞林もしかり。改訂頻度は前二者ほどよりずっと低いが、広辞苑も一旦採録したらなるべく削除しない方針だったはずである。中型辞書というのは「膨張型」でもある。(現代の辞書は網羅性という特徴を備えており、「何を」網羅するかは多種多様だが、何であろうとその「何を」のスコープを外したら無限に拡大するしかない。)
三国は「制限型」である。ある年代の、使用頻度が一定以上のことばにスコープを定め、スコープの大きさ自体は変えないようにしながら、時代に応じて照準を少しずつずらしていっている。だから項目は入れ替わる。新しい版でスコープに入って増えることばがあれば、裏で必ず追い出されていることばがある。三国はその出入りが尋常でないのだが、新明国や岩国の運行も基本的には同じことではないだろうか。小型辞書は、「小形」の辞書である限りは「制限型」とならざるを得ないのである。
と書くと、まるで各辞書が物理的な嵩を抑えておきたいがために「制限型」の方針を採っているかのようだ。そうではないだろうし、そうでないことを願う。
あるスコープ内のことばを常に適切に記述したい、と考える「制限型」の辞書に必要なのは、項目数・記述量と改訂の頻度のバランスである。
改訂が1年おきの8万項目の辞書があるとする。毎年新語を追加して、さも時代に追随していっているかのように見せかけられるだろう。しかし実際には、死語・廃語の項目を削除したり、意味の変わったことばの語釈を書き換えたりする作業が、編集体制にもよるだろうけれど、おそらく追いつかない。屋上の上に増築を重ねながら下層をろくに修復しないタワーのようで、いずれ倒れる様子が目に浮かぶ。
改訂を50年おきにすると、版を改める際に8万項目すべてについて非常に十分な検討を与えられるかもしれないが、「あるスコープ内のことばを常に適切に記述したい」という所期の目的は果たされない。販売開始から10年20年と経つうちに、当初狙いを定めていた照準から時代が逃げてしまう。なるほど、時代の動きも考慮に入れねばならない。
「この量ならこの期間内にメンテナンスが終わる」という分量と作業期間、それに加えて時代の変化する速さ。三者の均衡が肝腎ということになる。それによってスコープの中をよく映すことが重要だが、「よく映すこと」とは、もはや新語のすばやい反映を必ずしも意味していまい。
かつて理想とされた、大型辞書をまず編み、そこから中型辞書を抜き出し、さらに小型辞書を生み出す、という方法はこんにち有効ではないようだ。
かえって、よく手入れされた「制限型」の小型辞書を中核として、周囲に比較的安定性の高い専門用語や枯れた古語などを付け加えるようにして中型辞書とする方が実情に合ってはいないだろうか。この場合、出来上がった中型辞書も「制限型」的な性格を持つものと思われる。これは全くの思いつきであるので厳しい突っ込みを期待する。
よく編まれた「制限型」の辞書は、時代が変わっても求められていくはず、という妙な確信がある。願望かもしれない。