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舟を編む#8:〈玄学〉のポスターから話が脱線していく

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『舟を編む』8話は、13年を経た時点から始まりました。
今回の記事は例によって本筋とろくすっぽ関係ありません。こんなはずでは。


アニメ1話は2000年が舞台でした。
翌年の春に西岡が異動するところまでを7話でやっていますから、8話は2014年

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壁には〈玄学〉こと〈玄武学習国語辞典〉最新版のポスターが貼ってあり、「2013年改訂」の文字が見えるものの、版数はわかりません。何と不親切な宣伝でしょうか。

これは5話・6話あたりで馬締らが作業を進めていた版ではありません。2000年に作業を進めていた改訂版を仮に「N+1版」としましょう。
6話の月例会議では、ホワイトボードに〈玄学〉「N+1版」の改訂スケジュール案が書かれていました。
案によると、「用例採集カードの洗い出し」「新規項目語候補の選定」が「年明けまで」。続いて「新規項目選定会議」が「来年5月厳守!」。そして、その後に語釈を執筆・発注し、「再来年末に出版目標!」となっています。順調に行っていれば2000年の再来年、すなわち2002年末に、松本+馬締体制で編まれた〈玄学〉のN+1版が出ていたということです。

では、2013年の版はN+2版でしょうか?
おそらく違います。

〈玄学〉と同じ学習辞書である小学館〈例解学習国語辞典〉の場合、1999年の7版以降は約5~6年おきに改訂されています。三省堂〈例解小学国語辞典〉3~4年程度で版を重ねており、かなりハイペースです。5話で佐々木が「去年(=1999年)大規模な改訂をしたばかりじゃないですか」と不満を漏らしていましたが、3年後の改訂というのは必ずしもあり得ない話ではないのです。
かように改訂合戦を続ける学習辞書の苛烈な市場情勢を考えると、2002年のN+1版から11年もの間〈玄学〉が放置されていたとは考えにくい。確実にN+2版が出たでしょうし、ペースを維持したならN+3版もあったかもしれない。
2013年の新版は、N+1の次の版か、次の次の版です。

13年を経て、玄武書房辞書編集部は〈玄学〉の改訂を2回以上終えています。そして当然、〈玄国〉やそれ以外の辞書も版を重ねているでしょう。この間〈大渡海〉の作業は遅滞せざるを得ませんから、未だ刊行に至らないのも無理からぬことです。

しかし、いかに馬締が辞書づくりに天賦の才を備えていたとしても、実地経験に勝る成長の糧はなかったに違いありません。と、これは5話の松本先生の受け売りでして。

「改訂作業は『大渡海』をつくる上でも必ず役に立つはずです。馬締さんは、辞書づくりは初めてですからね。ぶっつけ本番で『大渡海』に挑むより、『玄武学習国語辞典』で、経験を積んだ方がいい」

13年間、〈玄学〉などの辞書で培ってきた経験は、〈大渡海〉の編纂に余すことなく役立てられていることでしょう。


〈玄学〉のポスターには「デジタル版も新発売」と書いてあるのも見えます。
デジタル辞書、と一口に言っても色々あります。小学生用の辞書を搭載した携帯用の辞書専用機、つまりいわゆる「電子辞書」のことですが、これは実在しており、カシオが製造しています。

(ちなみにこのブログで↑みたいなリンクは単に画像みたいな扱いです。あしからず。)

ですが、仮に「電子辞書」なら「電子辞書も新発売」と書きそうな気もする。となると、「デジタル版」はアプリを指している可能性があります。そう言えば三省堂〈例解小学国語辞典〉はアプリ版もあるのでした。

例解小学国語辞典第五版を App Store で
「例解小学国語辞典第五版」のレビューをチェック、カスタマー評価を比較、スクリーンショットを確認、詳細情報を入手。例解小学国語辞典第五版をダウンロードして iPho...

ガラケー(当時はそんなことばもなかった)をぽちぽちしていた西岡もぬるぬるとスマホを操る2014年。「最近ITということばをよく聞きます」(3話)などと悠長なことを言っている時代は終わっているようです。


夢のない話をします。

映画版の『舟を編む』は1995年から始まります。
まさにWindows95が発売に沸き立つ当時の世相を背景に、映画の西岡はつぶやいています。

「まあ確かに、紙の辞書にとっては厳しい時代なんだよな。電子辞書も、売り上げ伸ばしてるし。あと10年で、『大渡海』ができたとして、2005年でしょ? その頃にはさ、電子辞書と、紙辞書の売上がほら逆転しててもおかしくないじゃん」

現実は彼の予言通りになりました。もっとも、「未来人」が撮っている映画なんである意味当たり前ですが。

スタッフロールにも名前を連ねる三省堂辞書出版部の山本康一部長によれば、1996年に紙辞書は1200万冊・300億円を売り上げていました。それが2008年には650万冊・160億円とほぼ半減「翻訳通信」100号)。
一方のデジタル辞書はと言いますと、1996年にカシオが本格的な電子辞書「Ex-word」の第1号機を発売。この年の出荷は5万台・1億円程度の市場だったのが、セイコー、シャープの参入により爆発的に成長しました。5年後には200万台・160億円、そして2007年は280万台・460億円という規模まで膨らみます。
単価の違い、収録辞書の違いなど色々な事情はあるにせよ、金額的には紙辞書の市場は減速しており、10年以上前に電子辞書に追い抜かれています。なお、2008年以降は電子辞書も市場が縮小していきます。

さて、ちょうどこの頃2006年10月に、11年ぶりの改訂となる〈大辞林〉3版が発売されました。中型辞書の〈大辞林〉は紛れもない〈大渡海〉のライバルですが、同書の売上については以前ある番組で恐ろしい数字を耳にしてしまいました。

販売部数が落ち込み続けている書籍版。初版は100万部以上を売り上げたものの、現在では20分の1以下に縮小してしまった。
一方で、電子版のユーザー数は数十万を超えている。

―ETV特集「辞書を編む人たち」2014年4月26日放送

100万部の20分の1は5万部です。これは厳しい。
計算間違いを疑いたくなりますが、おそらく正しい数字です。何故かと言うと、そもそも〈大辞林〉3版は販売目標が10万部だったのです(2006年の三省堂発表資料)。
1988年の初版が1年間で80万部を売り上げ、「辞書ブーム」まで巻き起こした過去を考えると、目標10万部はかなり後退しています。にもかかわらず、到達しなかった。出版社の予想を超えて市場規模が小さくなっていたものと考えられます。

同じく中型辞書の、〈大辞林〉よりネームバリューの大きい岩波書店〈広辞苑〉はどうでしょうか。(どうでもいいんですが、アラフォーを迎えた馬締主任は、岩波辞書編集部の平木靖成氏に雰囲気がよく似ていますね。)
1983年の3版で260万部を売って以降、販売部数は下落し、1998年の5版は約100万部ウェブ広告朝日)。最新の6版は2008年に出ていますが、「初刷30万部は第5版の半分以下」だそう(朝日新聞)。この後、予約だけで34万部を達成したという報道があって、紙辞書の中で健闘しているとは言え、市場全体の低迷は誰の目にも明らかです。

ところで売上5万部程度と見込まれる書籍〈大辞林〉3版ですけども、iPhone/iPad用のアプリが物書堂から2008年にリリースされています。

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モノトーンのすっきりした画面構成が印象的なアプリで、一時期アップルのCMにも出ていましたから、iPhoneユーザでなくてもご存じだという方も多いでしょう。こちらは累計29万本を売り上げており(AppStoreの説明による)、実は販売数で紙版を抜いている
さらに、〈大辞林〉は有料・無料の各オンライン辞書で使用可能で、iOSの辞書機能に搭載されている国語辞書も中身は〈大辞林〉です(下画面)。

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こうしたデジタル版〈大辞林〉のバリエーションについてはながさわ氏の下記ブログ記事が詳しいです。

混迷を極める電子版『大辞林』のサービスを比較する - 四次元ことばブログ
日本語の辞書のうち、電子辞書で存在感を発揮しているのは、『大辞泉』と『大辞林』の2種だと言ってよいでしょう。ここでいう「電子辞書」とは、専門の端末に搭載され...

また、〈大辞林〉のライバルとも言える小学館〈大辞泉〉も同様に各オンライン辞書で使えるほか、Kindleの辞書機能にも採用されています(下画面。辞書名は表示されていませんが〈大辞泉〉増補・改訂版)。

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つまり、紙辞書の売上だけを見てどうこう論ずるのは違うのであって、単に中型辞書が凋落していると言うより、主戦場が変わっていると捉えた方が的確だと考えます。
利益面で以前より大変なのはむろん間違いないところでしょうが、〈コトバンク〉、〈goo辞書〉などの無料辞書サービスや、iOSやKindleといったデバイスで〈大辞林〉や〈大辞泉〉が採用されている現在、中型辞書に触れる機会は増えているように思われます。コトバンクの月間利用者数は1500万人という数字もあります(JEPA『電子辞書のすべて』。ユニークPVなのか何なのかは不明)。
売れていないにもかかわらず、中型辞書は以前より身近にはなっているのです。

こうした情勢が中型辞書を取り巻く中、〈大渡海〉がいかなる戦略で臨むのか――といった話は、今のところアニメでは全く話題に上っていません。この辺はデジタルのデの字も顔を見せない(byながさわ氏)原作同様です。
念のためスタンスを明らかにしておきますと、私は基本的に『舟を編む』は一種のファンタジーとして観ています。このまま玄武書房が紙辞書の世界を突っ走ろうとそれを批判しようなどとは毛頭考えていません。
しかし、いち辞書ファンとしては、このご時世に敢えて新しい中型国語辞書が乗り込んでくるとしたら果たしてどんな形態になるだろうか、どうやって商売にするだろうか、と考えてみたくなる。
もちろん、簡単に答えが出るはずもないのですが。


『舟を編む』はファンタジーかつエンターテインメントであり、「たった数人で編集部を回す」とか、「童貞男がいきなり美人の板前女とうまいくいく」といった嘘があります。その一方で、実際の辞書制作の舞台を取材し、現職の辞書編纂者の監修を得て、辞書に関わる作業の部分では嘘がないように描かれている。そんな印象を受けます。
ところが上のように考えてみると、辞書づくりの観点からしても、この時代に中型辞書の企画が通りしかも続行しているといういわば超弩級の嘘が仕込まれています。でかすぎる嘘ほど、案外気にならないものです。

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