舟を編む#3:「恋」を各国語辞書で引く
アニメ『舟を編む』第3話のサブタイトルは「恋」でした。
エンディングで記述される語釈が巷でも好評ですね。
簡潔で明瞭な意味の記述は、まさしく〈大渡海〉にふさわしいようです。
そう言えば、映画『舟を編む』で馬締が書いた「恋」の語釈も、こんな構図で現れたのでした。
似ている。
いや、語釈自体は読んでいる方が恥ずかしくなるくらい違う方針で書かれています。でもレイアウトは同じ方向性です。
黒い背景に白い文字、というデザインからは物書堂の〈大辞林〉アプリを思い出さずにおれません。
ですが、綴られている「恋」の意味の点では、〈大辞林〉とは異なるみたいですね。
上の〈大辞林〉は「ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち」とする一方、エンディングに出てきたのは「人を好きになり、いつまでもそばにいたいという気持ち」でした。
実はエンディングの語釈は、〈三国〉最新版の「恋」によく似ているのです。
こい[恋] 人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)。「━に落ちる」
―〈三省堂国語辞典〉第7版(2014年)
エンディングの語釈はまるっきりこれの短縮版のよう。それもそのはず、サブタイトルの語釈を担当しているのは他ならぬ〈三国〉編纂者・飯間浩明先生ご本人です。
「恋」の語釈、従来の辞書では「男女の間」での感情と解説するものが大部分でした。『三省堂国語辞典』では〈人を好きになって、会いたい、いつまでも そばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)〉としました。今回のサブタイトル語釈でも、『三国』の精神を生かしています。#舟を編む
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) October 27, 2016
その飯間先生が〈三国〉の編纂に加わったのは6版からですが、劇中、古い4版が大写しになる場面がありました。
この気持ちはヒョイか、いや恋なのか、と懊悩する馬締の眼前、西岡が左手でぐいと押し広げたのが(彼は左利きなのか)、〈三国〉4版356~357ページ。見開き右側の中ほどに「恋」の項目が見えています。
こい[恋] 〔男女の間で〕好きで、あいたい、いっしょになりたい、いつまでもそばにいたいと 思う強い気持ち(を持つこと)。恋愛(レンアイ)。
―〈三省堂国語辞典〉第4版(1992年)
1992年の〈三国〉は、他の「従来の辞書」と同じく恋を「男女の間」のものと限っていることがわかります。
それはともかく、私はこの西岡の行動に驚きました。なぜって、すでにながさわ氏が指摘しているように、原作の同場面で登場し、ふたりが読むのは〈新明解国語辞典〉5版の「恋愛」だからです。
れん あい【恋愛】 特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
―〈新明解国語辞典〉第5版(1997年)
こんな語釈に頭をやられてから「恋」を説明しようとすれば、「天にものぼる気持ち」と筆を滑らせてしまうのもむべなるかな。
〈三国〉も〈新明国〉も三省堂が発行する個性派の辞書ですが、語釈の味付けについて評価するならば、〈三国〉はさっぱり、〈新明国〉は濃厚と対照的です。
原作の西岡は、馬締が〈新明国〉の項目を読み入っているのを見つけて「おお、知ってる知ってる。これ『新明解国語辞典』だろ」「独特の語釈でおもしろいって、有名な辞書だよな」と喜んでいます。
どうやら西岡は〈新明国〉のファンなわけです。
それが、アニメでは淡白な〈三国〉を開いている。これがキャラ崩壊でなくて何でしょうか!?
原作の西岡を愛した皆さん、今こそ立ち上がり、アニメ制作陣に怒りをぶつけるときです。
冗談です。
ところでアニメでは、ライバル三省堂の回し者・西岡が〈三国〉の宣伝後すぐに荒木たちが入ってきて会議を始めるため、「恋」の語釈に関する話題はさしたる展開なきまま終わってしまいました。
しかし、原作では少し趣の異なる進展を見せています。
「独特の語釈でおもしろいって、有名な辞書だよな。……で?」
「はい?」
「ごまかすなよ、まじめー」
西岡は椅子ごと近づき、馬締の肩に腕を載せた。「恋しちゃったのか? あぁん?」
「いえ、考えていたんです」
西岡に揺さぶられてずり落ちた眼鏡を、馬締は鼻のつけ根に押し戻した。「たしかに個性的な語釈ではありますが、恋愛の対象を『特定の異性』に限ってしまうのは妥当でしょうか」―三浦しをん『舟を編む』p53(文庫版)
異性愛だけが、「恋愛」なのか。
疑問に突き動かされた馬締は、各社の国語辞書で「恋愛」を調べるも、引いた辞書のどれもが男女の間での愛にしか触れていない。この現状は不十分だ、と考えた彼は、「男女のみでいいか? 外国語の辞書も調べること」と用例カードに書きつけます。
彼が如何に辞書編纂向きの人材であるか、馬締の鋭い言語感覚をよく表したシーンながら、アニメではカットされています。(あるいは、今後別の場面で出てくるのかもしれません。)
これもながさわ氏の下記記事によって指摘済みの事実ですが、小型辞書に範囲を限っても(「恋愛」ではなく)「恋」の語釈であれば、「男女」に限定しない辞書が既に存在していました。
「恋」の男女に関わる要点をかいつまんで書きますと、
- 1972年:小学館〈日本国語大辞典〉初版が、「恋」の語釈に「異性(時には同性)」という記述を登場させる。
- 1984年:〈日本国語大辞典〉をベースに編纂された小型辞書〈現代国語例解辞典〉初版が、上記「恋」の語釈を引き継ぐ。
- 2010年:大修館書店〈明鏡国語辞典〉が、第2版から「恋」「恋愛」などの語釈で「異性」の記述に「(まれに同性)」などの注記を付ける。
- 2014年:〈三省堂国語辞典〉が、第7版から「恋」「恋愛」などの語釈で「異性」の記述をなくす。
このような流れがあります(年号は刊行年)。原作『舟を編む』の舞台がいつだったにせよ、馬締はこれらの辞書の努力を残念ながら見逃していました。
しかし逆に言うならば、性別を限定しない恋愛に対応した主だった辞書は、せいぜい上記のものしかない、ということでもあります。
日本の国語辞書では今なお、色恋を男女間に限った語釈が大多数を占めています。辞書編集部に勤めて日の浅い馬締に、外国語の辞書に目を向ける前に日本の辞書を網羅せよ、と要求するのも酷な話です。
前置きがすっかり長くなりました。本題です。
「恋」の語釈を、各国語辞書で引き比べてみましょう。
というわけで、手始めに英語からです。
はい、英語の辞書、英英辞書を引こうというのです。
ああ、今のは「各・国語辞書」ではありませんよ。「各国語・辞書」を引き比べよう、と書いたのです。
だって、日本の国語辞書の「恋」を比較するなんてこと、皆さんとっくにやってるでしょう。そうでなくても、本屋なり図書館なりで適当に比べれば事足りますからね。
ここでは折角ですから、「外国語の辞書も調べる」という馬締の覚書に従い、もう少し手間のかかることをやってまいります。
英英辞書、つまり私たちにとって最も馴染み深い外国語であろう英語のことばを英語で説明する辞書、ここから手をつけます。
インターネットでは、いくつかの英英辞書を無料で引くことができます。
〈Dictionary.com〉は1995年に立ち上げられた老舗のオンライン辞書です(Adobeの広告バナーが目立ちすぎ)。
適当に引くと、語釈の末尾に著作権表示があり〈Random House Webster’s Unabridged Dictionary〉を基にしているとありますが、これは1966年に発行されたアメリカの辞書です。それにしたって、「online dictionary」なんて60年代に存在し得ない項目にまで同じ表示が出るのは、何だかおかしいですね。
Some people think online dictionaries will make print dictionaries obsolete.
「紙の辞書はオンライン辞書によって時代遅れになるだろうと考える人々もいる」という例文がまたお茶目です。なお辞書の自己言及的例文は本邦にも多くあり……。
いけない、脱線してきた。ずばり、「love」を引きます。
noun
1. a profoundly tender, passionate affection for another person.
ありゃ、短い。「名詞 1. 他の人に対する、心からの、優しく情熱のある好意」とだけあります。〈三国〉並の簡潔さです。
と言っても、項目は先があります。名詞としては他に13、また動詞として7つの意味区分があり、全体では慣用句などを含めて28もの意味区分が用意されています。その先頭が、上の短文です。
しかし、この先頭の区分は「恋」より広い範囲の「愛情」全般を指すようにも思われます。loveの方が恋より意味が広いんじゃないでしょうか。
項目を読み進めると、2番めの区分は「親、子供、または友人としての個人的なあたたかい感情や深い愛情」。
そして3番めが「セクシャルな情熱や欲望」と来て、つまり性愛・色情といった感じですけれども、「色恋」と言っていいものか。このsexualをどう解釈するかがネックです。「性的な」とも読めるし、「異性間の、男女間の」と捉えることもできる。ネイティブスピーカーはどちらで読むのか。馬締も困惑顔に違いありません。
困った馬締はきっと、他の辞書にも相談するはず。
もうひとつ、アメリカの辞書出版大手・Merriam-Webster社の無料オンライン辞書(正式な名前がわからない!)の「love」を覗いてみましょう。
1 a (1) : strong affection for another arising out of kinship or personal ties <maternal love for a child> (2) : attraction based on sexual desire : affection and tenderness felt by lovers (3): affection based on admiration, benevolence, or common interests <love for his old schoolmates>
(1)は語釈に目を通すまでもなく例文が「子供に向ける母の愛情」、同じく(3)は「古い学友への愛情」とありますので、「恋」ではないですね。どうも(2)が近い。
意味区分(2)を読んでみると、「セクシャルな欲望に基づき惹かれること。恋人が感じる、好意や親愛の情」。うーん、またsexualが出てきてしまいました。しかし、lovers同士の愛であればよい、と言われているような気はしますね。試みに「lover」を引きます。
a : a person in love; especially : a man in love with a woman
b plural : two persons in love with each other
区分aの最初に「恋をしている人」。love+erなので、当然と言えば当然です。
注目すべきはセミコロンの後で、「特に、女性を愛する男性」とあります。異性愛が前提となっているわけです。もっとも、何で「男性を愛する女性」に触れていないのかは不明ですが。
さてしかし、区分bを見ると、複数形の場合に「互いに愛し合うふたりの人」とあり、再び性別の要素が消え去ります。どうも煙に巻かれているような感じです。
当然すぎることですが、アメリカだけが英語の辞書を作るのではありません。本場イギリスの辞書にも説明を願いましょう。
イギリスは英語の「本場」であるだけでなく、有名なジョンソンの辞書や、〈Oxford English Dictionary〉(OED)を生み出した辞書の本場でもあります。
イギリスの英語辞書、と言えば、世界最大の英語辞書〈OED〉。しかしオンラインで更新され続ける最新の〈OED〉は使用料が月間30ドル・年間300ドルと高価で、なかなか手が出ません。
一方、オックスフォード大学出版局が公開している〈Oxford Dictionaries〉というオンライン辞書は無料で使えます。太っ腹ですね。
「love」の出だしはこうあります。
NOUN
1 A strong feeling of affection.
‘babies fill parents with intense feelings of love’
‘their love for their country’
1.1 A strong feeling of affection and sexual attraction for someone.
‘they were both in love with her’
‘we were slowly falling in love’
1は例によって広範な愛情を指している。
1.1がどうやら「恋」っぽいですが、「誰かに対する好意を、またセクシャルな魅力を、強く感じること」。またsexualで説明されてしまいました。
ちなみにライバル(なのか?)〈Cambridge Dictionary〉の「love」はと言いますと、名詞では、
the feeling of liking another adult very much and being romantically and sexually attracted to them, or strong feelings of liking a friend or person in your family:
「他の大人にとても強い好意を抱き、またロマンチックな、セクシャルな魅力を感じること。または、友人や家族に強い好意を抱くこと」といった辺りでしょうか。前半が「恋」ですが、ここでもsexual。うーん、どう解釈すればいいの、これ。
どうも埒が明きません。目先を変えて、紙の辞書を引いてみます。
大学図書館の言語学関連書コーナーに鎮座する〈Concise Oxford Dictionary〉(COD)は、大部の〈OED〉をコンパクトにまとめた単冊の辞書です。とはいえ、何しろ元が超巨大なため、コンパクトと言いながらなかなかの大きさがあります。その〈COD〉11版(2004年版)の語釈は以下の通り。(なお最新版は12版です。)
love ■ n. 1 an intense feeling of deep affection. > a deep romantic or sexual attachment to someone. > affectionate greetings.
「心からの愛情を強く感じること」「誰かに対する、深い、ロマンチックな、またはセクシャルな愛情」「愛情のこもった挨拶」とされています。やはりどうしてもsexualというところに落ち着くらしい。なかなかすっきりしません。
最後に、〈The Random House Dictionary of the English Language: The Unabridged Edition〉に恋の何たるかを伺うとします。大きくて重たい、数冊セットの辞書で、発行は1966年です。
……おや、この数字はさっき見かけました。最初に訪ねた〈Dictionary.com〉のベースとなった辞書と思われます。さて「love」には何と書いてあるか。
love n. 1. the profoundly tender or passionate affection for a person of the opposite sex.
バン!
思わず机を叩きました(今のは叩いた音です)。
とうとう「the opposite sex」、異性という記述が登場しました。
逆説的ですが、異性にわざわざ限るのは「恋愛」のことと考えてよいはずです。
そして、現行〈Dictionary.com〉の語釈をご記憶でしょうか。
あちらの意味区分1は、「a profoundly tender, passionate affection for another person.」と説明されていました。1966年の〈Random House Dictionary〉を改訂して成った辞書であるならば、現在でも同じく意味区分1が「恋愛」を指していると推測されます。
50年を隔てた新旧辞書の記述は、ほぼ同じ文面ながら、冠詞や接続詞の使い方以外に決定的な違いがあります。
もうおわかりかと思います。
〈Random House Dictionary〉では、loveの対象はa person of the opposite sex、すなわち「異性」に限定されていました。
それが、同辞書を基にした現行の〈Dictionary.com〉の語釈では、another person、すなわち「他人」ならばloveの対象たりうることになっています。
半世紀の間に、いずこかの時点で改訂されて、恋愛から「異性」の縛りがなくなった、と考えて間違いありません。
馬締が気付いたように、日本の国語辞書は長らく「恋」を男女の間に発生するものとみてきました。
明治の辞書〈言海〉で「戀ふ」を引くと、2番めの意味区分に「男、女、相思フ」とあります。
(〈WEB言海〉より)
しかし近年、社会の変化につれて、そうした軛を解かれ「恋」「恋愛」あるいは「色情」といった項目の語釈から「異性」「男女」という語が、少しずつ姿を消しつつあります。
自分が、相手が誰でも恋はできる、と考える辞書が増えているのです。
今回、ほぼ偶然に近いような形ではありますが、英語の辞書においても同様の傾向が存在しそうだという気配が感じられました。
きちんとした調査はまたの機会にいたしましょう。
きれいにまとまりそうな雰囲気ですけれど、記事はまだ終わることができません。「各」国語辞書と言ったのにまだ英語しか見ていません。これでは馬締も納得するまいて。
が、もうだいぶ文章が長くなってしまいました。ここで一旦終えて、続きは日を改めさせていただきます。